ことばの二極分解(スペース・マガジン12月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。なお、本文末尾にも書いているように、今月号で寄稿を終わりにしようと思っている。
 これで私見を御披露する場が一応なくなったので、これからはこのブログを中心に物書きをして行くほかないのかなと思ったりしている。もっとも、年齢とともに、ものを書くのも次第に億劫になって来ているので、結局「もの言わずに腹ふくれる」ことになるのかとも思う。



   [愚想管見] ことばの二極分解           西中眞二郎
 


 日本語の乱れが言われて久しいし、私の目から見ても、いろいろ気になる場合も多い。その一つが「犬にえさをあげる」という類の言葉であり、「自分を褒めてあげたい」をはじめとして、最近主流になって来た表現である。本来なら「犬にえさをやる」というべきところだろうが、「やる」という表現は、優しさに欠けるといったところから、女性を中心に「あげる」が使われはじめ、それが次第に一般化して来たのではないかと思う。私自身はこの表現には違和感を覚えるし、好きな表現ではない。しかしながら、ここまで広く使われるようになって来ると、「犬にえさをやる」という正しいはずの表現が、何となく尊大でデリカシーを欠いた表現のようにも感じられて来るし、その結果、私自身ついつい新しい表現に妥協してしまいそうな気がしないでもない。
 考えてみると、戦前あるいはそれ以前のような人間相互の上下関係は、いまや通用しない。そういった意味で、人間相互の関係においては、「やる」ではなく「あげる」のが正常な感覚になって来たのだろう。
 しかし、親がこどもに対して、更には飼犬や金魚に対してまでも「あげる」という表現を使うということは、平等思想を通り越して、優しさを基調としながらも正常な上下関係まで失ってしまったような現在の世相を反映しているような気がしないでもない。「あげる」という表現が、本来あるべき権威の存在までも否定し、更には最近の「学級崩壊」にまで繋がっていると考えるのは、果たして考え過ごしなのだろうか。
 テレビのコマーシャルで、戦国武将が「おいしい」と叫ぶのにも違和感がある。私のイメージからすれば、織田信長上杉謙信なら「うまい」と叫ぶのではないか。もっとも、当時の日常語がどうなっていたのか、私には正確な知識はないのだが―――。
他方、全く逆のケースもある。典型的なのが、いわゆるヘイトスピーチであり、ネットで幅を利かせている一部のツイッターの類である。そこでは、「やさしい」ことばは影を潜め、神経を逆撫でするような露骨で刺激的なことばが主役を担っているようだ。やさしさと激しさ、この両極をどう見るべきなのだろうか。仲間内や同質なものに対する優しさを基調としつつ、その反面、異質なものを厳しく排除するという二極分解の傾向が、ことばの上でも、更には実社会の中でも生まれているのではないかということが、最近気になることの一つである。
         *   *   *   *
 このコラムを持たせて頂いてから、早いものでちょうど10年になりました。このような欄を持たせて頂いたことは、私にとってとても貴重な体験でしたが、御当地日立と格別の御縁のない私が、この欄に長く居坐るのもいかがなものかとも思い、10年を節目として、退場することにしたいと存じます。これまでお読み下さった読者の方々に厚く御礼申し上げ、皆様方のますますの御健勝、御発展を心からお祈り致しますとともに、スぺース・マガジンと関係者の方々のますますの御発展をお祈り致します。(スペース・マガジン12月号所収)