憲法私見

 今日は憲法記念日。いろいろきな臭い動きもあり、一文書こうかと思ったが、年のせいかまとまったものを書こうという意欲も湧かない。それでも何か触れておきたいと思い、ちょうど10年前のこのブログに書いた小文を再掲することにした。


憲法についての私見>(2005・5・3付け当ブログ掲載)
 憲法改正には、私は反対である。もちろん内容次第ではあるが、例えば「環境権」だけを取り上げた憲法改正は現実にはあり得ないだろうし、また、その程度のことで憲法改正をすべきものではないと思う。憲法改正は、付随的なことは別として、あくまでも9条の問題であり、私は、現行平和憲法は理念として尊重すべきものであるに止まらず、後でもちょっと触れるように、わが国の国益にも叶ったものだと思っている。ムリをして「普通の国」になる必要はなく、「ちょっと変わった国」で十分である。
 近時、65歳以上の高齢化率が20%近くに達した。それ自体大きな問題であるが、現在の65歳という年齢は第二次大戦を知る最後の世代であり、わが国自体の戦争の記憶を持つ人は、全国民の20%弱しかいないということでもある。いまや社会の主力は戦争体験のない世代であり、政治家においても同様である。これらの「若い」世代が、戦争というもの、平和というものをどのように理解しているのか、大きな不安がある。「平和憲法の理念の風化」が進むのではないかということ、「護憲はダサい」といった感覚が蔓延すること、最近の世相の流れを見ていると、私はそのことが怖い。
 話はちょっと変わるが、最近の社民党の動きで疑問を感じるのは、「自衛隊日米安保憲法違反である」というかっての路線に回帰しようという動きがあることである。自衛隊憲法違反だという主張は、憲法の条文を素直に読めばもっともな主張である。しかし、その憲法の下で、苦しい論理を展開しつつ自衛隊は存在して来た。国会が決めた法律に基づき50年以上存在して来たものには、それなりの重みがある。「自衛隊憲法違反だから自衛隊を廃止せよ」というのは筋の通った論議ではあるが、どの政党が政権を握っても、村山内閣の「苦渋の決断」が示す通り、現実にはその路線は今更採れないだろう。とすれば、「憲法違反」の主張は、「それなら憲法改正をしよう」という主張に道を開くこととなり、事態は社民党の狙いと全く逆の方向に進むこととなる。憲法というものを余りに硬直的に解釈すべきではないと私は思う。硬直的に解釈すればするほど、憲法は、現実から遊離した「邪魔な存在」となり、その軽視や改正につながって来る。憲法に幅があるとすれば、その中でどの路線を選ぶかは政策判断の問題であり、選挙民の選択の問題である。
 それでは、「平和憲法」に一体どんな意味があるのか。少なくともその存在がわが国の軍事大国化の歯止めになっていることは間違いないし、アジアを中心とする世界の国々に、「平和国家」としての日本をアピールできる最も効果的な材料であることは間違いなかろう。また、日本が「軍事的貢献」を迫られた場合、「憲法上の制約」というのは、対外的にも主張しやすい論拠である。まして、日本に憲法を「押しつけた」アメリカには、胸を張って主張できる論拠である。国際社会で、唯一の原爆被爆国家として、平和主義を基本としつつ、賢明に、あるいはズル賢く立ち回るためには、憲法の存在とその利用価値は極めて大きい。憲法は決して不磨の大典ではないし、内容次第では改正に頭から反対というわけではないが、少なくとも9条に手を付ければ、現在より軍事化が進む契機となることは間違いない。(2005・5・3)
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 この小文を載せてから10年経った。「憲法の危機」はいよいよ募っているし、世の中もかなり変わって来てはいるが、私自身の基本的な問題意識は、さほど変わっていない。「集団的自衛権」についての問題意識はまだ顕在化していなかったようだが、昨今の「集団的自衛権」問題がこの小文で書いた「憲法の弾力的運用」の中に納まるものとは思えないし、アメリカからの「軍事貢献圧力」に対する「憲法9条」という歯止めを自ら放棄することは、賢明な選択だとは思えない。また、中身もさることながら、十分な議論もないままに既成事実を積み上げ、一強体制を良いことに誰に憚ることもなく勝手気ままな振舞いをしている現政権に対して、10年前とは質的に異なるほどの強い危惧の念を抱かざるを得ない。