憲法遵守は責任放棄ではない

 朝日新聞の「声」に時折投稿している。ここ10数年の間に20回近く掲載されて、その都度このブログにも転載している。このところちょっと御無沙汰しており、先日久々に投稿したのだが、まだ反応がないところを見ると、今回は掲載にならないようだ。
そんなわけで、「声」に代えて、このブログに載せようと思う。

    
       憲法遵守は責任放棄ではない


 6月19日付けの新聞記事によれば、安倍総理は「従来の憲法解釈に固執するのは、政治家としての責任放棄だ」と述べたという。いかにも責任感のある所見のように見えるが、その発想の根本に問題があるのではないか。
 現在の我が国の安全保障の環境をどう見るか、それに対してどう対応すべきか、いろいろ意見の分かれるところかも知れない。しかし、仮に安倍総理や政権の判断を容認するとしても、それが憲法解釈の変更を容認する理由にはならないだろう。憲法は、政府や国会を縛る最高法規であり、政府や国会は憲法の枠内で責任を果たすことが求められているのだと思う。もし憲法が時宜に適しないものになっているのなら、その改正を図るのが筋道であり、それが容易でないとしても、それは最終的には国民の判断によるものであり、国民の責任に帰着すべき問題である。
 憲法を超えた責任を、政治家に求めるのは筋違いであり、為政者の過剰な「責任感」は、立憲主義の否定につながり兼ねない危険な発想だとすら思う。

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 本題は以上で終わりで、以下は本題から離れた雑感である。この10年間、ある御縁で、日立市で刊行されている「スペース・マガジン」というタウン誌に、「愚想管見」というコラムを持ち、毎月勝手な雑文を書いていた。10年経過したのを契機に、昨年末で執筆を辞退したのだが、月に1度というのも結構な頻度であり、材料がそれほど転がっているわけでもない。そのため、何か思いついたテーマがあると、まず同誌への掲載を考え、その後でこのブログに転載するというパターンが多かった。
 今年から、その公表の機会がなくなり、直接このブログに書くことに何の支障もなくなったわけで、今年からこのブログに書くことが増えるだろうと予想していたのだが、この予想は見事に外れた。「何か書かなければならない」というノルマがなくなってしまい、全くのマイペースが許されることになったので、生来の怠け癖に年齢による億劫さも加わって、筆を執る意欲が減って来たということもあるような気がする。言ってみても詮ない話ではあるが、できることなら、もう少しものを書く意欲を駆りたてて、頭脳の老化を防ぎたいものだとも思っている。