無罪判決(スペース・マガジン6月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。


       [愚想管見]   無罪判決              西中眞二郎


 先般の最高裁判所の判決で、痴漢事件の被告人に無罪判決が出た。一昨年だったか話題になった「それでもボクはやってない」という映画では、痴漢容疑の青年が地方裁判所で有罪の判決を受けた。結論を先に言えば、私はこの最高裁の無罪判決に賛成である。一方、裁判員制度がいよいよスタートしようとしている。そんなところから、「無罪判決」について少し考えてみようという気になった。
 裁判所に上がって来る刑事事件は、警察・検察それぞれが積み上げて来た結果である。例外的な場合は別として、警察・検察の良識は一応認めても良いのだろうと思う。それだけに、裁判所が無罪判決を出すことは、勇気の要るところだろう。裁判官が事なかれ主義であれば、同業者(?)である警察や検察の見解を尊重する傾向があっても不思議ではない。この点、新しく発足する「裁判員」はこのようなシガラミを持っていない。その点に期待を寄せたいと思う。
 刑事裁判に関しては、「疑わしきは罰せず」という原則が、タテマエとしては確立している。しかし、この原則にこだわり過ぎると、真犯人を逃してしまう可能性が高まるし、それに違和感を抱く人もいるだろう。それだけに難しい判断を必要とする場合も多いだろうが、冤罪を生むよりは遥かにマシだと割り切るべきではないか。なお、一般論として言えば、無罪判決を、「警察や検察との対決」とか、「警察や検察不信」ととらえるべきではなく、事柄を扱う立場の違いと理解すべき場合が多いのではないかと思う。
 裁判は「正義を求める場」ではなく、証明された事実に基づいて、被告人が有罪かどうかを判断する場である。中途半端に良心的な裁判官は、真実探求に視点が向き、必要以上に悩んでいるのではないかとも思うが、上記の原則を貫けば、その悩みが多少は減るのではないか。真犯人が無罪判決を受けた場合、正義に反するには違いないが、それは冤罪を防ぐための必要悪である。また、最近の痴漢事件に見られるように、被告人はそれまでの間、多くの社会的なデメリットを受けて来ている。仮に被告人が真犯人だったとしても、既に社会的な「償い」をしているとも言えるものであり、「これでは痴漢事件の捜査は出来ない」とか、「無罪判決が出れば痴漢が続出する」などと考える必要はないと思う。
 なお、昨今、被害者やその関係者の意志を尊重する傾向があるようだが、私は基本的にはこれには反対である。被害者はとかく感情的になりがちであり、「目には目を、歯には歯を」といった応報主義的な見方に立ちがちである。被害者の気持が判らないではないが、国家権力が行う「裁判」は、被害者の感情とは異なる次元に立つべきものだろう。
 裁判官は、そして裁判員も、「真理探求の神様」ではない。与えられたデータで、「疑わしきは罰せず」という原則に則って、淡々と判断するだけのことだと割り切るべきだと思う。(スペース・マガジン6月号所収)