八つ当たり政党論

 1年あまり前に書いた雑文である。このブログもしばらくお休みが続いたので、「まだ生きている」という証拠に、古い在庫を掲載する気になった。今の時点では、かなりずれているところもあるが、政治に対する私のスタンスは、基本的には同様であり、あえて、書いたままのものを掲載しようと思う。この文章自体は、何人かの知友と、同じく何人かの旧知の国会議員に送ったが、それ以外には公表する機会もなく、不良在庫として手許に残っているものである。なお、このうち一部は、このブログにつまみ食いして掲載したものもあり、したがって重複もあることをお断りしておきたい。

      
     八つ当たり政党論(私的メモ)  平成16年7月

 参議院選挙も終わった。与党は「敗北ではない」とコメントしているようである。立場上当然のセリフなのかも知れないが、どう考えても強弁に過ぎない。今回の選挙の結果を一言で言えば、①小泉政権に対する対抗馬としての民主党の躍進②二大政党の流れの中での社民、共産両党の埋没ということだろう。
 今回の選挙結果は別として、閉塞感を伴う最近の社会の風潮や最近の政治に対して、私はこのところ、ちょっとした苛立ちを感じている。そのような現状の中で、各政党は、どんな長所や弱点を抱え、今後一体どうなって行くのだろうか。全くの床屋政談ではあるが、私なりの感想・評価めいたものを、いわば苛立ちの発散策として、つれづれなるままにまとめてみたい。そう言った意味での全く個人的な感想であり、内容的にも精粗さまざまであり、レポートと言うよりは、アンバランスな雑談とでも呼ぶ方が適当なものだと思う。

 なお、この種の論議で、「中立」ということは困難だと思う。当人が中立の積りではあっても、どうしても論者の政治的心情、更には論者の思考パターンや人生観から逃れることはできないだろう。だから私は、中立的立場からの論議だと言う積りはない。私がどのようなスタンスで居るのかということは、以下の個別のコメントの中にも自然ににじみ出て来ると思うし、また、最後の箇所で、私の気持を整理してみたいと思っている。

一 自民党

 かっての自民党は、時期による振幅はともかくとして、概して「国民政党」だったと言って良いのだろうと思う。アメリカを中軸とする西側の一員であり、資本主義に立脚していたことは紛れもないが、多くの場合には野党の政見も取り込み、いわば軽軍備、修正資本主義、そして現実との妥協が得意な現実政党だったと思う。野党と最も厳しい対立があったのは、今となっては古い話だが、単独講和と日米安保だったと思うが、それとても、今にして思えば、イデオロギー抜きの、当時の国際情勢をふまえた現実路線だったと言えなくもない。
 もっとも党のタテマエを見ると、憲法改正教育基本法改正等々、かなりイデオロギッシュなものも含まれているが、これまでの自民党は、それらを党是としては抱えつつも神棚に祭り上げて、国民的対決を避けた現実路線を選択して来たと思う。
 しかし、今や、神棚の埃を払って、これらのテーマが現実の課題として顕在化しようとしている。それが自民党の変質なのか、それとも奇妙な国家主義的な動きが見られる昨今の世論を見ての「現実路線」なのかは良く判らないが、いずれにせよ、極力対決を避けるという、良く言えばフトコロの深い路線、悪く言えばことなかれ路線から離れようとしているような気がしないでもない。国民政党という言葉の定義にもよるが、多かれ少なかれ、現在の自民党は、国民政党から離れ、いわゆる右寄りのイデオロギー政党に変質しつつあるのではないかという危惧の念を抱かざるを得ない。

 その発端は、小渕内閣の時期の、国旗国歌法の制定だったと思う。選挙公約にもなっていなかったはずのこの法案が国会に提出され、当面ムリだろうと思われているうちに何となく成立してしまったのが、自民党変質のはじまりだったような気がする。ついでに言えば、「法制化」をしても強制はしないという当時の政府の見解は、いまやなし崩し的に壊され、事実上の強制化が進行しつつある。ここで国旗国歌論をする積りはないが、このような現実の進行は、国旗国歌にとっても不幸なことだろうと思う。

 その流れに拍車を掛けたのが、小泉政権だと思う。
 ある知人の言によれば、「誰が総理になってもあまり世の中は変わらないと思っていたが、そうでもないんだね。」念のために言えば、これは小泉政権を評価しての発言ではなく、世の中がだんだん悪い方に向かっているというマイナス評価の発言である。
 ここで個々の政策を論評する積りはないが、「靖国参拝」に代表される小泉総理の行動パターンは、バランス感覚を欠き、論理を欠き、更には羞恥心を欠き、自分個人の「信念」という名の衝動だけに頼ってそれを頑迷に貫き通すという姿勢だと思う。

 小泉総理の悪口ばかり言うのも片手落ちだろう。少なくとも、北朝鮮に対する姿勢については、私は小泉さんを評価している。その動機が奈辺にあったのかという勘ぐりは別として、いたずらに「世論」に同調することなく、北朝鮮との間にパイプを開き、さしも強硬に見えた世論も手なずけてしまったことは、後世の歴史がどう評価するかは別として、小泉さんの「頑迷さ」がプラスに働いたひとつの成果だと思う。

 話は悪口に戻る。私が早い時期に小泉総理の総理としての適格性を疑った出来事のひとつは、平成13年大相撲夏場所貴乃花優勝の際の「感動した」発言だった。前日に怪我をし、当日の本割りでは武蔵丸と全く相撲にならなかった貴乃花が、優勝決定戦で奇蹟的に武蔵丸を破って優勝した場所の優勝者表彰の際の発言である。
 あの日の優勝決定戦の前の私の感想は、こんなことだった。①怪我人相手では、武蔵丸も力を出しにくいだろう②ここで無理をしては、貴乃花の土俵生命は終りになるのかも知れない③お客を大事にという貴乃花の意欲は買うが、スポーツマンとしてはこの際休場すべきである。
 私の感想が正しかったかどうかは別として、優勝した貴乃花に対する小泉総理の「感動した」発言には、武蔵丸に対する同情もなく、ましてや私の感じたような屈折した感情は微塵もなく、怪我を押して敢闘した貴乃花に対する熱血少年小説的な反応だけだった。しかも、細かいことかも知れないが、「感動しました」ではなく「感動した」という表現は、その道の第一人者である横綱に対するセリフではなく、「自分より目下である若者」に対する傲慢なセリフだという印象を受けた。
 もう一つ私が抱いた抵抗感は、「総理は個人として国技館の土俵に上がっているのではない。個人的にどのような感想があろうとも、一国の総理として淡々と表彰状を渡すのがこの場の役割だ」ということである。ところが、小泉総理は、個人的な、しかも私に言わせれば偏った私的感想を土俵上で述べたのである。
 「この人はダメだな」とそのとき私は思った。それにも増して怖いと思ったのは、国技館を埋めた観衆から、ブーイングどころか熱烈な拍手が起こり、総理の「肉声」が評価され、その後「感動した」が流行語にまでなったということである。国民感情あるいは世論というものを余りアテにしてもいけないなというのが、そのときの私の強烈な印象だった。その「世論」がいまだに尾を引いているのではないか。
 ついでに言えば、小泉内閣成立の頃の小泉総理の人気の理由が、私にはいまだに判らない。「改革」と言い、「自民党をぶっ壊す」と言っても、その行く先は全く見えない。これでは、ひところの革命一辺倒の全学連と何ら異なるところはない。それに、小泉さんが女性に人気のあるキャラクターだったということは、私には永遠に理解できないことだろうと思う。

 小泉政権がどのような体質でいつまで続くのかは別として、小泉政権後の自民党の進む道が、私には全く見えて来ない。政策的には小泉流を継続して微温的な国民政党から離れる方向に向かうのか、いわゆる抵抗派が主体となり比較的穏健ではあるが微温的なかっての自民党に戻るのか、それともそれ以外の第三の道があるのか、私としては、第三の道があることに期待したいが、もとよりそれがどのような道なのかは全く判らない。せめて、少なくとも小泉流の継続だけは避けて、「国民政党」に戻って貰いたいと思っている。

二 民主党

 今回の民主党の躍進の最大の理由は、自民党に対する失望というバランス感覚の現れだと思うし、私もその意味で民主党に期待するところが大きい。
 しかし、民主党は、ある意味では自民党より右の人もいれば、旧社会党の人もいる幅広い政党である。また、前歴に縛られない若い議員たちの中には、政治志向を生かすための方便として民主党の傘の下に入った人もかなりいるのではないかと思う。
 この党が、党略のための結束は別として、本当に政権党としての政策を一体として持ち得るのかどうか、疑問なしとしない。幸い岡田代表という良い「顔」は得たし、原理主義者と言われる岡田代表に対する期待は大きいが、果たしてそれだけで党としてのアイデンティティーを今後とも保って行けるのかどうか、今後民主党が責任の軽い野党という立場を離れて、厳しい責任のある立場に立とうとした場合、そのひずみが出て来るのではないかということが気に懸かる。

 小泉政権が続く限り、民主党自民党との違いはかなりはっきり見えるし、それが現在における民主党の存在価値でもあるだろう。しかし、二年後、三年後に自民党の路線が変わり、仮りにかっての穏健路線に戻ったとした場合、自民党民主党の一体どこが違うのか私には良く見えて来ない。そう言った意味では、小泉さんのお蔭で民主党の存在が脚光を浴びているという気がしないでもない。
 民主党も「改革」を唱えているようだが、その内容がはっきりしないことは、自民党の場合と大きな違いはない。憲法改正にも必ずしも否定的ではないようだし、将来第二自民党となり、自民党の中に埋没してしまう虞れもないとは言えないだろうし、逆に自民党を取り込んでしまうことも考えられなくはない。同時に、政策選択で厳しい判断を強いられる場合、分裂の可能性もないとは言えないだろう。もっとも、当選第一の議員心理からすれば、政策的に異論はあっても大きな傘から抜け出ることは容易なことではあるまいが。
 なお、「改革」に関して補足すれば、自民党と改革のスピードを競うのではなく、小泉改革とは異なる路線の改革の行方を、十分な論議を尽くした上で示して欲しい。

三 公明党

 今回の選挙結果に関し、「年金で負けたのではない。もし年金問題の否定的評価ということであれば、公明党が減って、共産党が増えたはずだ。」とのコメントが党幹部からあったと聞く。私はそうは思わない。
 公明党が減らなかった最大の理由は、政策にかかわりなく公明党を支持する固定票の存在と、その人々の熱心な選挙活動の結果だと思う。共産党が減った理由は、一言でいえば、二大政党の中に埋没してしまったということだと思うし、死票を嫌うという選挙民心理も大きく効いていると思う。「いま自民党、あるいは小泉さんにお灸をすえるには、民主党に投票することが最も効率的だ。」多くの選挙民はそう考えたのではないか。

 より基本的に私が腑に落ちないのは、公明党小泉政権の与党となっていることの理由である。もちろん、選挙戦略や与党に加わることによる宗教法人としてのメリット等はあるのだろうが、政策的に一体どのようなメリットがあるのだろうか。
 公明党の立党の原点は、その宗教性を別にすれば、中道主義、平和主義、人道主義、反国家主義、そして、恵まれない階層の人々に温かい手を差し伸べるということだったと思う。ところが、現実の行動は、その逆の方向に手を貸しているとしか思えない。たしかに、与党の一員となることによって、政権内部でブレーキ役を果たすという機能を多少は果たしているのかもしれないが、それは憲法問題、教育基本法問題等、重要ではあるがかなり限られた分野に限定されており、多くの場合、自民党の単独採決を避ける免罪符の機能を果たすとともに、自民党の票集めに寄与しているだけではないか。

 政策的にブレーキ役になるのなら、それは野党でも十分果たせるはずである。まして、公明党の下野により自民党が少数政権になれば、キャスティングボートは十分握れるはずである。最近は見かけないが、ひところ公明党のポスターで「与直し」との耳慣れない言葉を良く目にした。おそらく、与党になったことに忸怩たる思いがあり、「与党の中で世直しをする」という釈明の意味を籠めていたのだと思うが、何となく滑稽な思いがした記憶がある。
公明党支持者の中にも、最近の路線には批判的な向きが多いと聞く。「政策如何にかかわらず公明党を支持する」という支持者が果たしていつまで続くのか、このままでは、そろそろ支持者の反乱が起きるのではないかという気もしないではない。他方、「公明党支持者もいまやプチブルになったので、かっての路線には固執しないのだ」と言う人もいる。

四 社民党
 
 社民党の凋落は、目を覆うべきものがある。多数の議員とそのバックをなす組織が民主党に移行したわけだから、ある意味では当然の帰結かも知れないが、支持するしないは別として、かっての自社対決の時代を懐かしく思い出す。

 「改革」という名の下での弱者切り捨て、奇妙な国家主義の流れ、更には憲法改正の動きなどを見れば、自民党と存在基盤をかなり異にする社民党には、憲法問題をはじめとして、健全野党として、もっともっと頑張って欲しいと思う。民主党岡田代表の「愚直」さが受けたのと同様、社民党も「愚直」に頑張って欲しいと思う。どうすれば力を蓄えることが可能なのかということについての知恵は私には全くないが、少なくとも、候補者に魅力のある人材がほとんどいないということも、凋落のひとつの原因ではないかという気がする。なお、全くの蛇足だが、「平明愚直」というのは私の生活信条であり、以前の著書にもそのようなことを書いた記憶がある。言い換えれば、「愚直」という言葉は、私の好きな言葉である。

 ところで、最近の社民党の動きで疑問を感じるのは、「自衛隊日米安保憲法違反である」というかつての路線に回帰しようという動きである。自衛隊憲法違反だという主張は、憲法の条文を素直に読めばもっともな主張である。しかし、その憲法の下で、苦しい論理を展開しつつ自衛隊は存在して来た。国会が決めた法律に基づき50年以上存在して来たものには、それなりの重みがある。「自衛隊憲法違反だから自衛隊を廃止せよ」というのは筋の通った論議ではあるが、どの政党が政権を握っても、村山内閣の「苦渋の決断」が示す通り、現実にはその路線は今更採れないだろう。とすれば、憲法違反の主張は、「それなら憲法改正をしよう」という主張に道を開くこととなり、事態は社民党の狙いと全く逆の方向に進むこととなる。
 それでは、憲法に一体どんな意味があるのか。詳述は避けるが、少なくとも平和憲法の存在がわが国の軍事大国化の歯止めになっていることは間違いない。また、日本が「軍事的貢献」を迫られた場合、「憲法上の制約」というのは、対外的にも主張しやすい論拠である。まして、日本に憲法を「押しつけた」アメリカには、胸を張って主張できる論拠である。国際社会で、唯一の原爆被爆国家として、平和主義を基本としつつ、賢明に、あるいはズル賢く立ち回るためには、憲法の存在とその利用価値は極めて大きい。憲法は決して不磨の大典ではないし、内容次第では改正に頭から反対というわけではないが、少なくとも9条に手を付ければ、現在より軍事化が進む契機となることは間違いない。そのためにも、社民党はその方向に手を貸さないよう賢明に対応して貰いたい。
 なお、かっての社会党当時に私が抱いた感想は、「憲法に頼り過ぎる」ということだった。自衛隊に限らず、各種の政策に対して「憲法違反だ」という主張が結構多かったように記憶している。明らかに憲法違反のものにつきそれを主張することは当然だが、憲法というものを余りに硬直的に解釈すべきではないと私は思う。硬直的に解釈すればするほど、憲法は、現実から遊離した「邪魔な存在」となり、その軽視や改正につながって来る。憲法に幅があるとすれば、その中でどの路線を選ぶかは政策判断の問題であり、選挙民の選択の問題である。かっての社会党は、政策論争をすべきところを、憲法論争で「お茶を濁して」いた面があったような気がする。「愚直」であって欲しいが、そのような形の社会党には戻って欲しくない。

五 共産党
 
 選挙戦における公約などを見ると、その内容は、一部を除き概ね穏健妥当であり、むしろ食い足りない気がするほどである。最近の「改革」ブームの中で見れば、古き良き時代の、良い意味での保守主義本流の流れを引いているような気すらしないでもない。

 しかし、国際的な共産主義国家の低迷・凋落の流れの中で、共産党は随分割りを食っていると思う。その内容は別として、かっての国際共産主義革命の一翼を担っていた政党というイメージからどうしても逃れられないのは、お気の毒というほかはない。また、戦争を経験したかっての活動的支持者の高齢化が進む一方、良かれ悪しかれ極めてユニークな存在だったこの党もいまや数ある政党のひとつとなり、若者を引きつけるキャッチフレーズを失ったことも、その凋落の大きな理由だろう。現在の危険な世相の中で、それに正面から対決する政党、少数ではあっても野党らしい野党として、社民党とともにぜひ頑張って貰いたいと思う。

 もっとも、これは社民党についても言えることだが、現状で激励するということと、政権を担うことを期待するということとは、全く別物である。いずれそのようなことになれば、それもひとつの未来ではあるが、現状においては、小泉政権に対する正面からの抵抗勢力として機能するということが、私としては最大の期待である。

付 私自身の意見

 目下のところ、私には固定した支持政党はない。その時々の政治や社会の流れと候補者の顔ぶれを見ながら、その時々の判断で投票しているというのが正直なところである。そういう意味では、典型的な無党派層かも知れない。一番根元まで遡れば、体制派であり保守派だということになるのだと思うが、最も「保守的」な主張の原点は、「憲法維持」、「ヤミクモな改革反対」「戦後民主主義・平和主義を守る」ということだと思うし、現在の時点でそれに一番遠いところに居るのが自民党だとも言えそうな気がしている。

 多くを語る積りはないが、そのような私の考えは、これまでの感想の中にもいくつかは顔を出していたと思う。以下これに加えていくつかの点をつまみ食いして、私の考えを整理しておきたい。

 憲法改正には、私は反対である。もちろん内容次第ではあるが、例えば「環境権」だけを取り上げた憲法改正は現実にはあり得ないだろうし、また、その程度のことで憲法改正をすべきものではないと思う。憲法改正は、付随的なことは別として、あくまでも9条の問題であり、社民党の項で触れたように、私は、現行平和憲法は理念として尊重すべきものであるに止まらず、わが国の国益にも叶ったものだと思っている。ムリをして「普通の国」になる必要はなく、「ちょっと変わった国」で十分である。また、その「ちょっと変わった国」に違和感を覚える国は、世界各国の中でも極めて限られているのではないかと思う。
 近時、65歳以上の高齢化率が20%近くに達した。それ自体大きな問題であるが、現在の65歳という年齢は第二次大戦を知る最後の世代であり、わが国自体の戦争の記憶を持つ人は、全国民の20%弱しかいないということでもある。いまや社会の主力は戦争体験のない世代であり、政治家においても同様である。これらの「若い」世代が、戦争というもの、平和というものをどのように理解しているのか、大きな不安がある。「平和憲法の理念の風化」が進むのではないかということ、「護憲はダサい」といった感覚が蔓延すること、最近の世相の流れを見ていると、私はそのことが怖い。
 ついでに言えば、最近言論の自由が侵されつつあるのではないかという怖さを時折感じる。例えば、具体的に言えば、最近の北朝鮮による拉致事件の関連で、北朝鮮の立場に理解を示すような発言に対する風当たりは、極めて強かった。石原東京都知事によって代表されるような浅薄かつ感情的な国家主義と、これに逆らう言論を封殺しようという動きが、国民一般の間にもかなり広くかつ深く浸透しているように感じられるのは、何にも増して怖いことだと思う。

 いわゆる「改革」にも私は疑問を抱いている。もちろん、正しい方向へ進むための改革は歓迎すべきだが、現在の「改革」は、行方の見えないままに言葉だけが一人歩きし、あるいは為政者の「信念」だけが先行した改革だと思う。そのような改革に対しては、私は「抵抗派」たらざるを得ない。
 至って初歩的な疑問なのだが、戦後の苦しい時代にやって来られたことが、これだけ豊かになったわが国でなぜできないのか、私には良く判らない。国際化の進展とその中でのグローバルスタンダードということが理解できないわけではないが、現在のグローバルスタンダードの多くは、いまや覇権国家となったアメリカのアメリカンスタンダードだという面も強いのではないか。もちろん、長いものに巻かれることも、国際的な力関係からやむを得ない場合もあろうが、自ら尻尾を振ってそれについて行く必要もないように思う。少なくとも、これまでのわが国の施策のバックボーンだったとも言える平等化社会を離れて、二極分解・弱肉強食の社会に進むことは、避けるべきである。

 山道に一軒家がある。そこまで道を付け、郵便を配達するのは、効率の悪い話である。しかし、その効率の悪いことをある程度やらなければならないのが、公的部門の使命だと思う。民間企業の場合には効率が基本だろう。もっとも、昨今のリストラブームは、会社と株主のみが栄えて、従業員や地域は疲弊するという行き過ぎが多く見られ、望ましくない点も多いような気がする。企業の生き残りのためには、やむを得ない面もあるのだとは思うが、国や地方公共団体といった公的部門は、それとは違う使命を帯びている。民間企業が効率を追求すればするほど、公的部門が不効率な部分の受け皿にならざるを得ないということも、十分考える必要があると思う。
 もちろん、公的部門でも、コストを考え、効率化を進め、必要な規制緩和を進めること自体は必要なことだが、それは企業とは異なる論理、視点も勘案して検討すべきことだと思う。少なくとも、十分な議論も尽くされないままに、為政者の「信念」だけで思い付きの「改革」が進められることには、私は強く抵抗を感じる。

 将来のわが国を考えるとき、時々の事件は別として、最も基本的な問題は少子化とそれに伴う人口の減少だと思う。年金問題もそうだし、これからは過疎化と労働力不足の問題が一層深刻化して来るだろう。年金問題はさておき、これからのわが国の国土のありかたを真剣に考えるべき時期に来ているのではないか。都会にばかり人が集まり高層ビルが林立するが、田舎には人がいなくなって田園は荒れ果てるという事態は、是非避けたいものだと思う。そのためにはどうすれば良いのか、国を挙げての真剣な論究が必要とされよう。

 これらとの関係で見落とせない問題は、外国人問題だと思う。外国人を異物視することは避けるべきだし、むしろわが国社会に積極的に取り込んで行くことが必要だと思う。それは、国際化とか人道主義とかいった大義名分からのみならず、少子化が進むわが国自身の利益にとっても必要な課題だと思う。
 現在の外国人対策は、難民問題を含め、極めて閉鎖的であり、場合によっては治安対策的ですらある。もちろん、治安も大事だし、外国人犯罪者を擁護する必要もないが、多くの外国人は日本人同様、善悪両面を持つ血の通った「人間」だと思う。いわゆる不法滞在外国人についても、いったん合法化した上で必要最低限の管理下に置き、わが国での活動を認めることが望ましいと思う。ヤミに埋もれてしまっている外国人をオープン化することは、犯罪防止にも寄与するはずである。これらは、人道主義ということだけではなく、わが国の「国益」にも叶う方策だと思う。

 最後の問題は財政問題である。私は、消費税の増税はやむを得ないと思っている。その点、今回の民主党の政策には敬意を表したいし、社民党共産党の主張はこの点では単なるスローガンの域を出ない。ただ、安易に消費税に頼るのは問題であり、逆累進の性格の強い消費税の増税が避けられない以上、同時に累進性を強める税制改正として、直接税の強化も行われる必要があると思う。そのことは、単なる財源の問題だけではなく、所得格差や資産格差の是正といった「社会正義」のためにも必要なことである。
 これまでの直接税の流れは、概して減税の流れだったが、私はこれには異論がある。例えば、年収2千万円というのはかなりの高額所得者だと思うが、このレベルの人でも所得税率はかなり低くなっている。乱暴を承知で私見を言えば、例えば2千万円以上の所得に対する所得税率は50%を大きく超えるレベルになっても良いと思う。単に生活して行くだけのためなら、それ以上の収入は必要としない。同様に相続税も強化すべきだと思う。生活のために必要な土地を手放さなければ相続税を払えないといった事態に対しては、何らかの調整措置を加えるべきだと思うが、その問題を別とすれば、現在の基礎控除は余りにも高過ぎる。これでは、富の平準化を図るという相続税のひとつの目的に叶わないものだと思う。
 なお、現在の超低金利政策は問題である。金融の量的緩和は継続する必要があろうが、超低金利は、政府と企業が個人の資金を収奪していることに他ならない。この状態は個々人の将来の生活設計を狂わせ、消費意欲を阻害する一方、企業や政府のモラルハザードの要因ともなり兼ねない。一日も早い金利の正常化が必要だと思う。

 財政との関連で言えば、地方への財源委譲も重要な問題だ。どのようにやって見ても、財政的に恵まれた自治体とそうでない自治体との格差は残るのだと思うが、暴論を承知で言えば、納税者がある程度地方税の納付先を選択できるような方法は考えられないだろうか。私自身のこれまでの人生を振り返ってみると、少年時代は郷里で過ごして、教育その他郷里の自治体から恩恵を受け、成人して納税するようになってからは専ら東京都の税収に寄与して来た。このようなパターンの人は多いだろう。地方税による郷里をはじめとする他地域への還元あるいは「恩返し」という発想もあって良いのではないだろうか。

 こなれていない思いつきを含め、私見が長くなり過ぎた。「私見」はこのメモの本来の目的ではなかったのだが、書き出したらついつい筆が走ってしまったものである。なお、私は少年時代から短歌をやっているのだが、比較的最近の短歌のうち政治がらみのものを、お粗末な腰折れではあるが、政党論の補足として記しておきたい。


政治がらみの短歌(抄)
   
戦争を知らぬ世代の軍備論 理に叶うともどこか虚しき(平11・10)*
小旗振る人らに違和感なかるべし国旗国家の法制化なくば(12・9)*
思慮浅き言葉を「肉声」と評価する流れをややに怖れて過ごす(13・6)*
「信念」は未熟な思考の裏返しテレビを見つつ世相を思う(13・7)*
信念とはかくも虚ろなものなるか総理は靖国に参らんとする(13・7)
当事者の真意は知らず世の流れファシズム前夜を思うこの夏(13・8)
獅子吼する総理の顔が傲慢の「傲」という字に次第に似て来る(13・8)*
改革という言葉良しさはされど行き付く先は地獄か修羅か(14・5)
行く先の見えぬ世にして改革という言葉のみ一人歩きす(14・5)*
「郎」の付く為政者はみな難ありとうそぶく我れの名は「眞二郎」(15・5)*
与党たることに忸怩の思いありや「与直し」の語のポスターにあり(15・8)*
風格ある政治家なしと感じるは我れもいささか老いたるゆえか(15・8)*
ああ言えばこう言う術(すべ)に長(た)けし人 国導きて壊さんとする(15・9)
戦さ知りし政治家一人また去りて思慮浅き人闊歩する秋(15・9)
貧しき過去はゆとりありしに富めるいまなぜあくせくと脅えて暮らす(15・9)
既成事実作ってしまえば勝ちだよと誰かの嘯く声が聞こえる(16・2)
迷彩服着て戦士らは出掛けたり戦う積りじゃないというのに(16・2)
戦中の平和主義者の苛立ちに比すれば軽きものとは思えど(16・4)

             *印は、「歌集・春の道」(平成15年・砂子屋書房刊)所収