錦の御旗(スペース・マガジン9月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。


  
  [愚想管見] 錦の御旗              西中眞二郎


 世論や政見には、正面切って反論しにくい「錦の御旗」があるような気がする。小泉政権の「錦の御旗」は「改革」だったと言っても良いだろう。それでは現在の「錦の御旗」は何だろう。緊急対策としての「景気対策」は別格として、それ以外では、「地方分権」と「脱官僚支配」が、与野党を問わず「錦の御旗」になっているような気がする。
 
 「地方分権」は方向としては正しいものだと思う。しかし、現在の地方制度は、大統領制に近い制度であり、自治体執行部の議会からの独立性は強いし、大統領的知事や市長を支える幹部のほとんどはその自治体育ちの官僚か中央官庁からの出向幹部である。国と違って、議員が執行部に入る余地はなく、ほとんどの場合、知事や市長以外の「大臣ポスト」はすべて官僚によって占拠されている。知事が有能で個性の強い人であれば「知事独裁」になる可能性が強いし、そうでない知事の場合には、知事が官僚の御神輿に乗る「官僚政治」になる公算も大きい。例えば、前者の代表ともいうべき東京都の石原知事の場合、彼に現在以上の権限を与えることには、私は大きな危惧の念を抱いている。
 また、知事を支える「地方官僚」にしても、その能力や意欲が「中央官僚」より優れているという保証はない。「中央からの紐付き行政」を否定すること自体には全く異論はないが、現在のままの体制で、それが果たしてうまく機能するのかどうか。要はそれを動かす人間と、それを支える体制の問題に帰着する面が大きいのではないか。
 財政的基盤をどうするかということも、基本的な検討事項だと思うが、十分掘り下げた議論がされているとも思えない。また、効率性だけに限れば、中央に専門家を集中させる方が効率的な場合も多いだろう。いずれにせよ、各論抜きの総論だけで正しい答が出せるほど単純な話ではない。


 「脱官僚支配」についても、基本的には正しい方向だと思う。しかし、政治家が十分な能力や識見を持たないままに官僚を敵視し、あるいは「使用人」としてしか見ないことになった場合、果たして的確な行政が進められるのかどうかには、疑問の余地もある。政府関係の各種の人選にしても、「利益重視の世界で生きて来た人々」を「民」なるがゆえに重用し、「公益を考えて来た人々」を「官」出身なるがゆえに排除するという現在の傾向には、疑問を感じる場合も多い。
 私が入省した前後の通産省を舞台とした「官僚たちの夏」というテレビドラマが、現在放映されている。事実と異なる部分も随分あるが、当時の通産官僚たちの熱い思いが伝わって来るドラマである。しかし、ドラマの中での彼らの情熱や使命感に敬意を表しつつも、「官僚の独善・意欲過剰」という疑問を抱かせるドラマでもある。望ましい姿は、このドラマで描かれた「熱い官僚たち」と「脱官僚支配」との中間にあるのではないか。


 総論だけがあって各論のない「錦の御旗」に酔い痴れていると、いずれ「小泉改革」の二の舞になるのではないかという危惧の念を抱くのだが、いささか「へそ曲がり」に過ぎる感想なのだろうか。。(スペース・マガジン9月号所収)