電報(スペース・マガジン12月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。


  [愚想管見]   電報             西中眞二郎


 昔は電報に頼ることが多かった。費用節約のため、なるべく字数を少なくしようといろいろな工夫がされたようだが、大学合格通知の「サクラサク」などは、短文の傑作だろう。もっとも、短かすぎて誤解を招くこともあったようで、郷里の父親に「金送れ。頼む。」と打った積りが、「金を呉れた。飲む。」と解釈されてしまい、「ノンデハダメダ」という返信が来たというジョークもある。古い話だが、海軍の軍人が夫人に「チンタッタサセニコイ」という電報を打ったという話もある。「鎮海を発ったから佐世保に来い」という言葉を省略し過ぎて、怪しげな文面になってしまったという笑い話である。鎮海は当時の朝鮮南部の軍港で、佐世保は九州の軍港である。久々の入港の際に夫人を呼び寄せるというのは、当時の海軍さんには良くあったことのようだ。

 最近は、電話はもとより、ファックスやメールという便利な手段も生まれたので、電報の出番は慶弔の場合にほとんど限られて来たようだ。慶弔の電報の場合、文面以上にその台に凝ったものも多い。先年身内に不幸があった際たくさんの弔電を頂いたが、漆塗りらしい立派な台の付いているものが多かった。捨てるには惜しいので、たまたま外国から一時帰国していた身内がいたので相談したら、「外国人には判らないだろうし、日本趣味で喜ばれそうだから、お土産に持って帰る」ということになり、無事活用したこともある。これまた先年、叙勲のお祝いで頂いた可愛い小熊のプーさんの縫いぐるみ付きの祝電には、思わず笑ってしまった。
 以前は電報の受付は郵便局でやっていたが、最近は専ら電話での受付になっているようだ。これは便利なようで、逆に厄介な場合もある。相手の名前にしても、どのような漢字かということを説明しなければならないし、文面で難しい言葉を使ったりすると、電話窓口の相手になかなか通じず、イライラした経験が何度かある。先日弔電を打った際には、受付センターが東北地方所在だったらしく、係の人の訛がきつくて復唱してくれる言葉を聞き取るのに苦労した。その点、郵便局で扱っているレタックスという手書き・ファックスの「電報」には、この種の問題はなく、その上、自筆の筆跡で届き、おまけに料金も安いので、最近はこれを利用している場合が多い。

 慶弔の式典の際、祝電や弔電の紹介がされることも多いが、私はあまり好きではない。わざわざ出席している人については何の紹介もないのに、欠席者の電報だけが紹介されるというのは、いかにもアンバランスだと思う。特に勤務先や取引先の会社の人からの電報披露が延々と続いたりすると、「さもしい」という印象を受けることすらある。
 あるパーティーで、ある会社の支店長さんからの祝電が披露された。ところがそのパーティーにはその会社の社長さんも出席されており、社長さんに関しては何のご披露もない。これは極端なケースだとは思うが、それに似たようなケースも結構多いのではないか。
 どうしても出席できない場合に電報を打つのは、ご本人にとっては誠意の表れなのだろうが、それを皆様にご披露するかどうかは、全くの別物だという気がしてならない。
(スペース・マガジン12月号所収)