同時多発テロに対する日米首脳の反応(朝日新聞・声)


 またまた在庫品の流用、一昨年、朝日新聞の「声」に掲載された投稿の転載である。ところで、最近、朝日新聞に対する風当たりが、一部で結構強いようである。朝日新聞批判のためのブログ(ホームページ?)もできているようだし、ある「有識者」の議論の中で「最近朝日新聞的な議論が横行しているが・・・」という類のコメントを読んだ記憶もある。何が「朝日新聞的」なのかは良く判らないが、私の目から見れば、むしろ時として食い足りない気がすることすらあれ、朝日の論調が、それほど偏っていたり、「国益に反して」いるものだとも思えない。私自身、基本的には体制派の保守的な人間の積りなのだが、いつの間にか世の中が「国家主義的」なムードに染まり、動かずにいる私が次第に世の中で「左」に属して来つつあるような気がしないでもない。戦争を知らず、過去の痛みも知らない若い世代が世の中の主流を占めて来たことと関係するのだろうか。と同時に、言論の自由が知らず知らずのうちに侵され、妙な自己規制が働いて来るとすれば、それが何より恐ろしいことだと思う。
 それはさておき、「同時多発テロ」についての「朝日新聞的」な「声」の投稿を再掲する。


あの日の対応疑問増す2年  無職 西中眞二郎(東京都練馬区 65歳)
              <平15・9・4付け、朝日新聞東京本社「声」所載>
 あの日から2年が経とうとしている。生々しいテレビ映像に大きなショックを受けると同時に、日米両首脳の事件直後の反応に違和感を感じた。その思いがいよいよ強まっている。
 9・11の直後、ブッシュ大統領は「自由と民主主義が攻撃されている」「善と悪の歴史的闘争となろうが、善が圧倒するだろう」と述べた。小泉総理は「民主主義社会に対する重大な挑戦」と表現した。
 あの時点で「自由と民主主義」が出てきたことに違和感を感じたのだ。あの時点で明白だったことは「平和と秩序」に対する挑戦ということであり、それで十分ではないかというのが違和感の原因だった。「自由と民主主義」を大事に思う心は人後に落ちない積りだが、アメリカ流のそれを絶対視することが形を変えた絶対主義に通じる危険性を私は感じた。
 あの時の両首脳の対応の根底には、アメリカを中心とする世界秩序を是とし、それ以外を非とする余りにも強い思い入れがあったのではないか。その思い入れが、その後のアフガニスタン攻撃・イラク戦争、更にはアメリカの世界戦略のボタンの掛け違いの発端となっているのではないか。

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・・・・・・・話は変わる。また少々利口になった。画面に写真を入れることに成功、これは私にとってはちょっとした出来事である。これまで、画像には関心なく、パソコンに写真を保存したことすらなかったのだが、今日一足飛びにブログに入れるところまで進歩したわけだ。なお、写真を入れたのは、二日目の自己紹介のところである。「幼稚園児が無邪気に喜んでいる」とお笑い下さって結構である。