ネット社会の断片(スペース・マガジン)

 「スペース・マガジン」からの転載である。同誌は日立市で発行されている月刊のミニコミ誌で、既に330号を数えているのだから、たいしたものである。編集者の一人が私の知人なので、その関係で「稿料は無料だけど、好きなことを書いて良い」とのお誘いに乗ったものである。おしゃべり好きな私にとって、このような場が与えられたことは嬉しいことであり、毎月の出稿を私自身が楽しみにしている。もっとも、読者の方々や編集者の方々がどう評価して下さっているかは、保証の限りではないが。

<愚想管見> ネット社会の断片          西中眞二郎

 先日の新聞記事によれば、パソコン利用者によるブログ開設件数が昨年度末で335万件だという。これを多いと見るのか少ないと見るのかは別として、相当の件数であることは間違いあるまい。
 ところで、昨年秋の朝日新聞「声」に私の投稿が載ったのだが、これに対する激しい批判が載っているブログに、最近たまたま行き遭った。私の意見の概要は、「小泉総理の靖国参拝は、対外的に問題があるのみならず、わが国の中にも批判的見解がある。私の父は海軍軍人で靖国神社に祀られているが、私の心の中では、父の慰霊と靖国は全く結びついていない」という趣旨のものだった。そのブログでの批判のうちいくつかを見ると、いずれも匿名だが、
①中国が意図的に反日教育をしており、投稿はそれに乗せられている。(複数・私による要約)
②外国の反応に引きずられるのは、主体性を欠く。(複数・私による要約)
③また爺か 。いつから声欄は爺の妄言を垂れ流す場になったんだ? (原文のまま)
④誇り高き海軍軍人の息子がこれかよ・・・・父上も草葉の陰から泣いておられるだろうよ。(原文のまま)
 私の意見を公開した以上、それに対する批判があることは当然だ。以上のうち、①と②については、その表現の稚拙さや乱暴さは別として、そのような見解があり得ることは一応は理解できる。私としてどうにもやりきれなさを感じるのは、③と④の批判である。
 私自身はまだ若い積りでいるが、若い人から見れば「爺」であることは否定できない。確かに、将来との利害の薄い年配者の発言にどこまで重きを置くかという問題はあるだろうが、同時に年配者には若者が持っていない経験(特に戦争体験)もあり、また、あえて言えば、戦後われわれの先輩やわれわれが作り上げて来た遺産の上に立って現在を享受している若者が、将来を憂えている年配者を「爺」のひとことで切り捨てるという発想は、悲しいことである。
 ④には参った。亡き父がどう考えているかは知る由もないが、父と同世代の方からならともかく、おそらく若い方から、切り捨て御免のこのような発想が出て来ることには、恐ろしさを感じる。
 ③、④両者に共通して言えることは、匿名の激しい一言で相手を傷つけることに快感を味わっているということ、そして、そうせざるを得ない苛立ちを感じているということだろうと思う。意見を発表する場を持たず、また体系立った意見をまとめようともしない人々が、ブログの簡潔性と匿名性を利用して「鬱憤」を晴らしているということに、私はやりきれなさを感じた。彼らはいったいどのような人々なのだろうか、そして、彼らが生まれて来る社会というのは、いったいどのような社会なのだろうか。それがごく一部の人なのだとすれば問題にする必要もないのだろうが、もし現在が、このような思考方式、表現方式の若者を多数生み出している社会なのだとすれば、将来に暗いものを感じざるを得ない。と同時に、これがいわゆるネット社会の必然的な産物なのだとすれば、情報化の進展それ自体、明るいものばかりとは言い切れない不安も感じる。

<スペース・マガジン7月号から転載>

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早いもので、ブログを開いて3ヶ月になる。同工異曲の雑文を書く分には、全く苦労はなくなったが、このところ進歩もない。多分、まだまだやれることもあるのだろうが、まあこんなところで良いのかな・・・というわけで、新しいチャレンジをしてみる意欲も湧かない。ペースも大分落ちて来たが、細く長く、「手馴れた」手法だけで続けて行こうかと思っている。