映画のタイトル(スペース・マガジン4月号)

 例によって、スペース・マガジンに書いたものを転載しよう。


[愚想管見]  映画のタイトル                  西中眞二郎

  学生時分は映画が好きで、割に良く見ていた。どちらかと言えば邦画の方が好きで、キネマ旬報の年間ベストテンのうち、5,6本は見ていた時期もある。その後はとんと御無沙汰が続いたが、このところ毎月1本か2本くらいのペースで、近くの映画館に見に行っている。しゃれたビルの中に手頃な部屋が10近くあるいわゆるシネマ・コンプレックスである。仕事から引退して時間的余裕ができたということもあるが、それ以上に、歩いて行けるところにシネマ・コンプレックスができたということの方が、最近映画を見るようになった直接の理由のような気がする。
  ところで、少し前までは、出演者や主要なスタッフの名前は、最初のタイトルの中に出ていたような記憶がある。ところが、最近の映画では、最初のタイトルではほとんど出て来ず、最後になってやっと出て来るケースが多い。どうも気に入らない。映画を見に行く以上、監督や主演俳優の名前くらいは予め承知しているが、その他の出演者やスタッフの名前までは知らずに行く場合も多い。どんな助演俳優が出るのか、映画音楽の作曲が誰なのかなどを知らないままに映画を見るのは、何となく欲求不満の種になる。
  もちろん、映画の最後には御一同様の名前がずらっと出て来て、すべてが判る仕組みになってはいるが、肝腎なことが最後では遅過ぎる気がする。他方、最後の「名簿」は、肝腎でないことまでやけに詳しく、関係者の名前がメリハリが利かないままにすべて出て来るという印象で、譬えて言えば、商品を作った会社の社長の名前からはじまって、下請け会社の社員やセールスマンの名前に至るまで、数百人の関係職員の名前が肩書付きで延々と出ているようなものだとも思う。
  監督や脚本家は、映画のラストシーンには随分力を入れているはずだが、映画が終わったのかどうか判らないままにダラダラと続く最後の「名簿」にまで、監督や脚本家の目が届いているのだろうか。延々と続く「名簿」が映画の折角の感興をぶち壊しているような気がする場合も多い。もっとも、映画本体にすっかり溶け込んで、違和感なく見られるケースもないわけではないが、私の好みからすればそのようなケースは稀である。
  映画のシーンに登場する街並みや神社仏閣、風景などがどこなのかは、私にとって大いに気になる点の一つである。たいていの場合、市町村名やお寺の名前が「協力者」として最後のタイトルに出て来るが、速く動く画面に一度に沢山のものが出て来ると、十分読み取れない場合が多い。「社長」や「セールスマン」の名前とは違って、地名やお寺の名前などについては、もう少し読み取りやすいような形で流して頂けないものかといつも思う。
  素人の気ままな提案だが、昔風に、まず出演者や主要なスタッフの名前は冒頭に出して観客に予備知識を与え、最後に、映画本体とは切り離された説明としてでも良いから、現在のような補足的な「名簿」を映すのが、観客にとっては親切なのではないか。「完」の後であれば、もう映画は終わっているのだから、見たくない人は帰れば良い。その際、出演者の名前には、役名や顔写真などが添えてあれば、「〇〇をやった俳優は誰だろう」といった疑問への答にもなり、観客にとってもっと親切なような気もする。(スペース・マガジン4月号所載)