長崎市長選に思う

 伊藤長崎市長に対するテロ行為には暗然とした。しかも選挙期間中という時期である。今後このような行為が続発するとは思わないが、伊藤市長の問題にとどまらず、現在の世相が問答無用の方向に向かっていることと無縁ではないような恐ろしさを感じたのも事実だ。それはそれとして、今日ここに書こうとしていることはそのことではない。

 
 第一に、制度の問題である。事件の直後久間防衛大臣が制度論に言及して問題視されたが、「共産党市長が誕生する」という発言は論外として、彼の問題意識自体は正しいものだと思う。十分検討する時間もないままに、市長に立候補し、それを選ぶというのは、至難の技である。もし、時間的にもっとゆとりがあれば、別の人が立候補し、別の人が選ばれたかも知れない。その方が良い人が選ばれるかどうかは別として、やはりそれだけの選択の幅を持たせるべきものだと思う。
 今回の場合、もし伊藤市長が他界せず、人事不省のままで選挙を迎えたような場合、新しい候補者が出る余地はない。これはいかにもおかしい。生死いずれにせよ、選挙期間中の候補者に重大な変化があったような場合には、例えば、1カ月くらいの猶予期間を置いて新たな選挙告示を行うような制度を考えても良いのではないか。もっとも、今回ほど明確なケースでない場合もあるだろう。例えば、有力候補でない候補者の場合にどうすべきかといった問題もあるだろうが、有力かどうかで差を付けることはできないだろうから、すべての候補者についてそのような制度を設けるべきではないか。また、単なる「重病、重体」などの場合の扱いはもっとむずかしいと思うが、本人や家族の意向も勘案しつつ、選挙管理委員会の判断、場合によっては裁判所の介入なども含め、選挙の繰り延べ制度を考えるべきではないだろうか。

 
 第二は、選挙の結果である。新市長は県の課長だった人のようだ。いわば三階級特進である。どのような人で、どのような評価を受けていた人なのかは全く知らないが、奇禍に乗じたタナボタだと思わないでもないし、他方、この短い時間に出馬の意志決定をしたということは、ある意味では敬服に値するとも思う。
 それはそれとして、私が違和感を感じたのは、選挙直後の前市長令嬢の発言である。令嬢の夫君が立候補して惜敗したわけだから、落選候補者夫人の発言でもある。新聞記事をそのまま引用すれば、「市民の皆さん、父はその程度の存在でしたか。伊藤一長が浮かばれない」と涙ながらに語ったとある。父親の死、夫君の落選という大きなショックの中での発言だから、もっと同情的に読むべきだとは思うし、またその裏には部外者が与り知ることのできないさまざまな人間模様があったのかも知れない。そういった意味も含め、伊藤市長の御遺族に対する批判は控えるべきだとは思うが、それにしても、市長というポストを私物化したニュアンスを感じざるを得ない。もっとも、二世、三世議員が跋扈している現状からすれば、政治家の関係者にとっては、あまり不思議ではない感覚なのかも知れないが、もしそうだとすれば、それはそれで基本的に由々しい問題だと思う。
 伊藤市長がいかに立派な市長だったとしても、その女婿が市長にふさわしい人かどうかは、全くの別問題である。そういった意味では、「弔い合戦」という情に溺れることなく、世襲を避けた長崎市民の判断は敬服に値するものだと思う。