改革と崩壊(スペース・マガジン4月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。



         [愚想管見]   改革と崩壊              西中眞二郎


 「改革」、「規制緩和」、「官から民へ」、「小さな政府」、「グローバルスタンダード」などの言葉が謳歌され、小泉劇場喝采を浴びたのは、つい数年前のことである。それに異を唱え、あるいは慎重さを主張する向きは、「守旧勢力」、「抵抗勢力」という烙印を押され、政府与党はもとより、野党やマスコミですら、これらのドグマに対し正面切っての異論を唱える向きは稀だったように記憶している。気が付いてみれば、所得格差、地域格差は拡大し、非正規労働者が大幅に増大し、地方にはシャッター街が連なる状況になった。折しも、アメリカを震源とする今般の大不況である。
 「小泉改革」に対しては、私は以前から基本的な疑問を抱いており、改革真っ盛りの平成13年から14年にかけて、こんな短歌を作ったこともある。
  “「信念」は未熟な思考の裏返しテレビを見つつ世相を思う 
  “獅子吼する総理の顔が傲慢の「傲」という字に次第に似て来る 
  “改革という言葉良しされどその行き着く先は地獄か修羅か 
  “行く先の見えぬ世にして改革という言葉のみ一人歩きす

 「小さな政府」は、納税者の立場からすれば望ましいことに相違ない。しかしながら、民間企業が効率化を指向すればするほど、政府や自治体は、非効率的な部分の受け皿を用意する必要が生じて来る。国民は、納税者と受益者の両面を持つ。税金が安いに越したことはないが、「安い税金、粗末な福祉、不便な生活」では問題の解決にはならない。高齢化社会を迎えた我が国にとって、「小さな政府」という路線は、現実にはとり得ない路線だと思う。
 「規制緩和」、「官から民へ」という流れも、その中身によりけりだ。政府がそのなすべき責務を放棄し、大企業の好き勝手な行動を許容するという結果を生んでしまった面が目に付く。それをバックアップした各種審議会等の人選を見ても、経済界の有力者が幅を利かせていた場合が多いが、「経済界代表」が必ずしも「民間代表」だとは限らないし、いわんや「国民代表」ではない。彼らの声を「民」の声だと考えたのは、「官」と「民」とを安易に対比させた短絡的な錯覚の産物だったと思われてならない。
「グローバルスタンダード」と言っても、それは「アメリカンスタンダード」に過ぎないとも思う。現実にアメリカが覇権国家として世界のリーダーシップを取っている以上、それに妥協するのはある程度やむを得ないことかも知れないが、決してそれが「正義」ではない。拝金主義に溺れ虚業がはびこる偽りの繁栄はもろくも崩壊したが、「アメリカンスタンダード」が唯一の正道ではないということが実証されたという意味では、現在の世界経済の崩壊は、長い目で見れば悪いことではないという気がしないでもない。

 昨今の不況の厳しさを「小泉改革」と安易に結び付ける積りはないが、小泉改革と同根の発想の前提が崩れたことは確かだし、小泉改革の結果、世界不況の我が国への影響がより深刻化したことも否定できないと思う。(スペース・マガジン4月号所収)